今朝から雷を伴って激しい雨が降っている。午後になって少し落ちついたが、明日の明け方までこんな感じらしい。種蒔き後、程よいおしめりはウェルカムだが、これだけ激しいのは歓迎されない。雨水の勢いで種が流されてしまうからである。でも、まあ、蒔いてしまったものはしょうがない。雨がジャバジャバ降るのもしょうがない。ケセラセラ。困ったのは長い停電。搾乳したミルクが、停電だから機械が動かず殺菌できない。捨てるしかなくなってしまった。忍びないなあ。
お昼に造園業の方に来てもらって庭の手入れことで相談した。とりあえずはびこっているアメシロ退治をお願いした。明日、その作業をしてくれると言う。大雨で予定していた造園の仕事ができなくなり、こうやって打ち合わせできた。酷い天気であっても、100%悪いことしかないものなんてない、ということなんだろう。
いずれ、こういう日は開き直ってのんびり過ごすに限る。ということで、ミルクの話しを通じてヤギはなぜ産業家畜として淘汰されてしまったのか、そんなヤギたちに活路はあるのか、を考えたい。
一般に牛の泌乳量は一日あたり20〜30リットルと言われる。リンやメッコがいくらスーパー母ちゃんだとしても、それは山羊界のことで、桁が違う。ヤギ10匹を飼うのを止めて牛一匹にした方が楽である。これが理由のひとつ。
もうひとつは、ザーネンなどのヤギは季節性繁殖なので、冬の間は乾乳のため、一斉にミルクがとれない、ことである。日常的に飲むミルクに供給の空白期間があることは商品として致命的に痛い。
牛も乾乳する。ただ、周年繁殖の動物だから、Aという個体が乾乳中であってもBは搾れる。こうして牛乳は一年中途切れることなく供給されるのである。
乳量と季節性、ヤギが市場から駆逐された2つの大きな理由である。
ところで、これはあくまで「家畜としての」産業という(偏った)視点によるものである。しかも、牛や豚などのいわゆる産業型家畜と比べている。ヤギには弱点があるので、どうにかしないといけない、あるいは、いや、こんないいことがヤギにはある、というそういう発想である。最近、私が感じるのは、こういう狭い考えにヤギ関係者になるほど縛られていやしないかということである。ヤギというものを、従来のミルクや肉、毛皮、除草という有用性から解き放し、新たな有用性を創造すべき立場の専門家が、逆にミルクや肉や毛皮、除草といった狭い枠の中にヤギを閉じ込めてしまっているように見える。そこにあるのは、牛や豚との産業的尺度での比較に伴う僅かなのびしろであり、つまりは思考停止である。
たとえばコロナ禍のとき、オンライン会議にヤギを参加させるサービスがアメリカであった。同じくアメリカで子ヤギとヨガを楽しむサークルがある。今必要なことはこういう発想である。日本のヤギ研究会のテーマにこの類のものを見たことがないのが、残念である。ヤギと真面目につきあうということは、こういう古典的なジャンルの中に自らを入れ込むことだという呪縛があるかのようだ。ヤギに関心を持つ若い方たちはヤギと牛を並べて見てなどいない。ヤギをただヤギとして正面から見据えている。人とヤギとの関係を自由に観る姿勢は健全に思える。
産業的な偏った見方によってヤギは劣勢に立たされ、結果淘汰されてきた。そうではなく、視野を大きく広げていくときが来ている。私が「空飛ぶヤギ」を応援したい気持ちはここから出ている。
私とヤギとは、ミルクを外せない関係なので古典的なジャンルの中に居る。しかし、私とヤギとの心理的距離感は、ここから外れている気がする。
ミルクの話しに戻るが、伝統を重んじるヨーロッパではヤギは重宝され、チーズは牛のものより格上とされている。フランスでは「シェーブル」と呼ばれ、初夏の風物詩になっている。ヤギミルクの季節性がむしろ価値に変わっている。こうした伝統的な価値とオンラインのヤギに共通点を感じるのは私だけだろうか。そこにヤギ復権のヒントが隠れている気がする。
日本の産業視点でしかヤギを捉えられない姿勢は、私たちには常識であっても、世界的には極めて特異なのだろうと思う。明治になって、政府は、先進国の仲間入りを果たそうと西洋にある文明の上っ面を日本に持ち込んだ。ヤギもそのひとつである、こうした歴史を紐解くと見えてくるものがある筈だ。そこには、ヤギのことだけに納まらない私たち日本人の普遍的な特徴があるのかも知れない。それはまたの機会にしたい。
もっと自由に。ヤギと牛を比べるのはもうやめよう。かく言う、私が一番なんだが。
今日のヤギ時間:トータル4時間30分
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